東電柏崎刈羽原発ができるまで その3

元刈羽村長・木村博保県議と東電常務の面会の直後から、柏崎市・刈羽村両自治体では、原発誘致のための根回しが急ピッチで進められていった。
 
69年3月、柏崎市議会で原発誘致決議。
6月、刈羽村議会でも原発誘致決議。
9月18日、東電による原発建設計画正式発表。
11月、「柏崎刈羽地点原子力準備事務所」設置。

さらに71年10月8日、木村県議は、村のために買ったと言ってきた52haの土地を、あっさりと個人的に東電に売却してしまった。翌9日、所有権移転登記完了。

この年の木村県議の申告所得は4億5486万円。うち3億9495万円が土地売却によるものだったが、この金は全額、木村県議と角栄氏の地元筆頭秘書・本間幸一氏によって、東京目白の田中邸へと運ばれた。“錯誤”として登記は取り消されたものの、やはり実質的な土地所有者は室町産業、さらに実質的には田中角栄氏だったのだ。

後に田中真紀子氏は、中越沖地震で柏崎刈羽原発が全停止し、あわや大惨事となりかけたことに関して、「責任を感じている、柏崎に原発を呼んできたのは父ですし」と述べているが、その裏にはこうしたいきさつが隠されていた。

この年、地元の一部有力者は、木村県議(角栄氏)の約4億円には及ばないものの、同様の土地転がしで巨額の利益を上げていた。71年度の県内長者番付は、1位の木村県議に続く第2位も東電への土地転がし組だった。

他にも、先祖伝来の土地として所有していたもの手放して「プチ原発長者」になった人は少なくなかったらしい。不毛の砂地が一転して富を生み出したわけだが、その景気はかつての石油景気以上に一時的なものだった。

その後の柏崎・刈羽地域は、原発のもたらす資金で“ハコモノ”は充実した。しかし、発展の活気や実績は、他地域に比べて見劣りの感が否めない。交付金に頼って地域を興す努力を怠ってきた、原発がかえって地域を衰退に向かわせている、こう指摘する人は少数ではない。

[続く]

 

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