東電柏崎刈羽原発ができるまで その1

東電柏崎刈羽原発が建っているその場所は、昔は何も無い未開の砂地だった。その砂地にもたらされた原発建設計画のいきさつを、今日から数回に分けて書いていきたいと思う。

*   *   *   *

1963年、柏崎市の助役だった小林治助氏が市長選に出馬し当選。翌月、当選御礼の挨拶回りで会った理研ピストンリング工業(現・株式会社リケン)の会長・松根宗一氏から、柏崎に原発を作らないかと持ちかけられた。

松根氏は理研の会長を務めるとともに東電の顧問も務め、59年からは電気事業連合会の副会長として、電力業界でも高い地位にいた人物だったのだ。

そんな電力業界の重鎮から原発建設を持ちかけられた小林市長は、原発について熱心に情報を集め、誘致に向けて動き始めていった。これには、柏崎という市の特殊な事情が絡んでいた。

今はもうほとんど知られていないが、かつて柏崎は周辺に油田が林立する「石油の街」だったのだ。日本の石油元売最大手・JX日鉱日石エネルギー株式会社も、元をたどれば、有限責任日本石油会社という地元企業から始まっている。

こうして一時期大いに発展した柏崎だったが、石油はいつまでも続かなかった。栄華の最後の残り火である日石柏崎製油所も終焉に近付いていた頃に市長となった小林氏は、過ぎ去った栄光を何とか取り戻したいと願った。それが再びエネルギー分野で出来るならば…。彼はそう考えたのだ。

この水面下の原発計画は、隣の刈羽村にも、内々に伝えられていたはずである。やがて、海岸沿いの何も無い荒れた砂地が、一部有力者の間で、やにわに土地投機の対象になりはじめていった。当時の刈羽村長、後に自民党所属の新潟県議になる木村博保氏も、66年8月19日に約52haの土地を買った。52haといってもピンと来ないが、阪神甲子園球場グラウンドの40倍といえば、とてつもなく広い土地だったことが分かるだろう。

[続く]

 

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